2025年のイースターは4月20日(日)でした。
子どもも大人も教会にたくさん集まって、イースターをお祝いしました。

イースターは十字架刑で処刑されたイエス・キリストが、処刑日から数えて3日目に復活したことをお祝いする日です。「復活」の事柄はキリスト教の始まりでありながら、初期の教会でも現代でも「あり得ない」ことと言われてきました。
教会がお祝いするイエス・キリストの復活は、イエス・キリストがゾンビのように甦ったことを指すわけではありません。では何なのか?何なのでしょうか…もう歴史的事実が何であったか、誰にも分かりません。
1つだけハッキリ言えることは、イエス・キリストが十字架刑で死んだ後もイエス・キリストを慕い愛していた人たちの希望は失われなかったということです。そしてイエス・キリストと共に生きる道は十字架刑という無惨な暴力で終わらずに、私たちと共に続いていくのだと宣言したのです。
イエス・キリストがしたことは、人々と共に生きることです。共に食事をし、酒を飲み、泣いている人を慰め、苦しんでいる人の手を握り、喜んでいる人と笑いました。そのことによって与えられた力やつながりは十字架刑で終わることはなかった、それは確かに言えることです。

教会の木に今年も卵の飾りを飾りました。また20日に礼拝に来た方々にはイースターエッグ(ゆで卵)を配りました。なぜイースターに卵が登場するのかというと、卵という一見無に見えるものから、ひよこという命が生まれることと、イエス・キリストが死から新しく命を得られたことを重ね合わせているからだと言われています。

私たちの覆う暗闇の殻はいつまでも覆い続けるように思えます。しかし「その日その時」が来れば、卵からひよこが生まれるように、球根から花が咲くように、私たちを覆う闇の殻も破られる、そう希望を持ち直すことこそ、イースターをお祝いすることではないでしょうか。(文責:熊谷)